津軽為信と高岡城
■ 津軽為信と高岡城
津軽為信と高岡城
東北は、津軽平野岩木山のふもとに広がる弘前市のほぼ中央に弘前城があります。
この弘前城を築城を思い立ったのは、津軽統一を成した戦国武将 津軽為信です。
為信は、関ヶ原の合戦美濃大垣城攻めに戦功を遂げ、津軽家の基盤を固めました。
慶長8年、家康が江戸幕府を開くと、為信も新城の築城を幕府に願れ、その築城予定地に土淵川の西の高岡の地を選びました。
後に、弘前城となる高岡城です。
この名城が完成をするまでには長い道のりがありました。
津軽為信が築城を嘆願するも徳川家康からの許可はなかなか下りず、為信は志半ばにして京都に着任してしまったのです。
しかし、この城計画に奔走し、築城を成し遂げた功労者、家老の服部康成がいました。
康成は忍の達人といわれ、津軽藩が大名に列せられたのも康成の働きが大きかったといわれて、関ケ原の合戦の功により、家康から安の1字を与えられたとの伝えがあるほどです。
この康成の貢献によって、為信が死去後も幕府より2代信枚の後見人を命じられ、慶長14年(1609年)弘前城築城が始まったのです。
弘前城は父為信の無念の遺志を継ぎ、2代目藩主信平が4年の歳月を要して完成したのでした。
服部康成は、徳川家康に仕えて「鬼半蔵」と称された服部正成の庶長子とも、同族ともいわれている。出身は伊賀国と伝わり、服部姓並びに半蔵(正成)の「成」を名乗っていることから、正成と近しい血縁関係にあったとも推測されている。家康の長門守の名乗りを与えられたり、「康」の字に関しても、家康から一字を賜ったものではないかという推測もなされている。
築城時、本丸西南に眩いほどの5層の天守と9つの櫓と櫓門がありました。
その規模と構造は壮大で総面積は14 万坪に及びました。
スケールはあの姫路城に迫らんばかりのもので、当時、4万7000石の禄高では不相応と思われていたようです。
残念ながら5層の天守は寛永4年に落雷で焼失し、現在の天守は文化5年10 万石へ加増されたのを機に、立見櫓を改造して造った3層3階のとなっています。
弘前城跡(弘前公園)は、周辺を歴史遺産と美しい自然に囲まれています。
春は毎年 200万人を超える市民や観光客で賑わう「弘前さくらまつり」、夏は「弘前ねぷたまつり」、秋には「弘前城菊と紅葉まつり」、冬は北国の冬を楽しむ「弘前城雪燈籠まつり」と、四季それぞれの情緒豊かな祭りを主体として、通年観光を楽しめます。
陸奥の小京都として人々に親しまれる弘前市の南西部の道の左右に古い町並みに33もの禅寺が続きます。
この寺町の背後はうっそうたる森で城南側を守る重要な防御の役割を果たしていました。
そして、ひときわ大きな山門がそびえているのを発見しました。
津軽家歴代藩主の菩提寺 長勝寺です。
その堂々たる構えは、まさに歴史の深さを偲ばせるに十分な姿を確認できます。
そして、津軽藩は蝦夷の警備にも当たりましたが、この弘前城は一度も戦火を受けることはありませんでした。
3階櫓の天守と櫓3基、門5棟を残し、明治の廃城令で破却されたのでした。
ぜひ、四季折々の美しい自然に包まれた弘前城を訪れてみてください。
いにしえの姿をそのままとどめた東北唯一の天守の魅力に酔いしれます。