会津 武家屋敷
■ 会津 武家屋敷
会津 武家屋敷
会津藩家老西郷頼母は会津藩松平家譜代の家臣で 代々家老職を務め、1700石取りの家柄でした。
けやき、ひのき、杉材を用いた和洋建築の壮大な屋敷は敷地面積2400坪、建築面積280坪に及び、38の部屋、畳の数は328枚となっています。
当時の様子をイメージできる表門、表玄関、御成りの間、雪隠、茶室、槍の間、客待の間、表居間、次の間、風呂場、台所、女中部屋、裏玄関などを見ることが出来ます。
会津魂 (ならぬことはならぬものです)
■ 会津魂 (ならぬことはならぬものです)
会津魂 (ならぬことはならぬものです)
なよ竹の風にまかする身ながらも たわまぬ節はありとこそ知れ
■ なよ竹の風にまかする身ながらも たわまぬ節はありとこそ知れ
なよ竹の風にまかする身ながらも たわまぬ節はありとこそ知れ
弱いなよ竹と同じように風に吹かれてしまう身だけれど、強風にも曲げられない、
なよ竹の節のよう私も節義に殉じてみせると強い意志と覚悟が感じられる句です。
そして、戦いの足手まといとならないよう、敵に捕らえられて、主の名をけがさないよう、生きるよりも死を選んだのです。
頼母の母・律子、妻・千重子など家族9人と一族12人が、西郷邸で互いに刺し違えて自刃し果てたのでした。
白装束の千恵子と子供達の人形などもありましたが、心が痛み、部屋の中の写真は一切撮れませんでした。
什の掟―じゅうのおきて(ならぬことはならぬもの です)
■ 什の掟―じゅうのおきて(ならぬことはならぬもの です)
什の掟―じゅうのおきて(ならぬことはならぬもの です)
幕末の会津には、多くの悲劇があります。
会津藩の軍制で数え16~17才の会津藩士子弟で編成された白虎隊は、飯盛山で目にしたのは砲煙に包まれた城下でした。
実際は、武家屋敷が炎上していたにもかかわらず、少年たちは城が陥落したものと思い「主君に殉じよう」と全員が自らの命を絶ったのでした。
会津藩士の子弟として、ふさわしい行動ができるよう、集団の中では決まりがありました。その決まりは「什の掟」といいました。
一、年長者(としうえのひと)の言ふことに背いてはなりませぬ
一、年長者にはお辞儀をしなければなりませぬ
一、嘘言(うそ)を言ふことはなりませぬ
一、卑怯な振舞をしてはなりませぬ
一、弱い者をいぢめてはなりませぬ
一、戸外で物を食べてはなりませぬ
一、戸外で婦人(おんな)と言葉を交へてはなりませぬ
ならぬことはならぬものです
人として生きていくため には、理屈や言い訳が通らない絶対にやってはいけないことがあるという意味が込められているそうです。
御薬園
■ 御薬園
御薬園
戊辰戦争時に新政府軍の療養所として使用されたため、戦火に巻き込まれずに往時の姿をとどめている庭園があります。
今から約600年前の室町時代、霊泉が湧出したこの地に、会津領主が別荘を建てたのが始まりといわれています。後に各種薬草を栽培する薬草園が設けられ、「御薬園」と呼ばれるようになりました。
歴代藩主がこよなく愛した庭園で、歴史の香る癒しの時間をゆっくりと過ごすことが出来ました。