百年もの間、小田原城を中心に関東を支配していた北条五代を知ろう

百年もの間、小田原城を中心に関東を支配していた北条五代を知ろう

戦国時代の関東の勇者、北条氏(後北条氏)の本拠地、小田原城に行ってきました。
北条5代にわたり100年もの間、関東一円を支配していたた戦国大名、北条氏は、豊臣秀吉によって、ついに降伏させられてしまいました。


小田原城

小田原城

小田原城

箱根外輪山の裾から緩やかに広がり相模湾に達する小田原。
その市街地に、戦国時代における関東の覇者、北条氏栄光の牙城で名高い小田原城があります。
小田原城は、秀吉の大阪城を凌ぐほどの広大な城でした。
現在、城地の大半が市街地で、東海道線や新幹線が本丸下の掘割を通っています。

小田原城を拠点とした北条5代の物語は、鎌倉の初期に小早川氏が小さな城を築いたところから始まります。
明応4年(1495)伊勢新九郎宗瑞こと北条早雲がこの地を、関東の最大の拠点と成して、関8州を掌握すると、以後、約100年間に渡って、小田原城は北条氏5代の居城となります。その北条時代の間、城郭は規模を広げながら、城下町ごと土塁で守る総曲輪がとられていきました。

北条5代

北条5代

北条5代

小田原城を本拠に関東一円を支配した戦国大名が北条氏(後北条氏とも言う)です。歴代当主五人は、北条五代と呼ばれています。

北条早雲

北条早雲

北条早雲

小田原北条氏の祖です。
室町幕府政所執事伊勢氏の近親で、仮名を新九郎、実名を盛時、出家して早雲庵宗瑞と称しました。申次衆として九代将軍足利義尚に仕えた後、駿河国(静岡県)に下向して甥の今川氏親を助けて活躍します。
伊豆国(静岡県)に侵攻して韮山城(伊豆の国市)を居城とし、小田原城を拠点に相模国(神奈川県)を平定しました。

北条氏綱

北条氏綱

北条氏綱

早雲の家督継承後は本拠地を小田原に移し、「虎の印判」を創始して新たな領国支配体制を整えました。
伊勢氏から北条氏に改姓し、左京大夫に任官。山内・扇谷両上杉氏と争い、領国を伊豆・相模2国(静岡県・神奈川県)から武蔵国(東京都・埼玉県)・駿河国(静岡県)・下総国(千葉県)の一部にまで拡大し、関東随一の戦国大名に成長させます。

北条氏康

北条氏康

北条氏康

河越合戦に勝利して扇谷上杉氏を滅ぼし、武蔵国(東京都・埼玉県)・上野国(群馬県)の勢力を服属させて山内上杉氏を越後国(新潟県)に退去させ、武田・今川両氏と相甲駿三国同盟を結び、上野国に勢力をのぱしました。

北条氏政

北条氏政

北条氏政

小田原に侵攻した長尾景虎(上杉謙信)を撃退するなど、度々関東に侵攻した上杉氏を武田・今川両氏と連携してけん制します。武田氏の駿河侵攻には、上杉氏との相越同盟で対抗し北条領へ侵攻した武田信玄を小田原城で防ぎ退けました。
氏康没後は相甲同盟を復活し、下野国(栃木県)・常陸国(茨城県)・上総国(千葉県)・下総国(千葉県)へ勢力を拡げ、再び武田氏と敵対すると、徳川氏と結び、織田氏への従属を決断します。譲った後も「御隠居様」と称されて主導的立場にありました。
小田原合戦の結果、責任を負って自刃します。

北条氏直

北条氏直

北条氏直

若くして家督を継承し、父の後見を受けて政務にあたり、織田信長と呼応して武田勝頼を滅ぼします。
信長が討たれると、その家臣、滝川一益を関東から駆逐し、信濃国(長野県)・甲斐国(山梨県)に進撃し、小田原北条氏最大の領国を形成しました。
徳川家康と対陣の後に和睦し、上野国(群馬県)・下野国(栃木県)へ侵攻を再開します。
そして、徳川氏・伊達氏等と連携して豊臣秀吉に対抗した後、一度は服属を表明しますが、再び対立。小田原城に主力を投入して決戦に臨みますが、秀吉の大軍の前に屈しました。
降伏後、高野山追放され、後に赦免され秀吉に出仕しますが、間もなく病没し、北条氏は滅亡します。

馬出門桝形

馬出門桝形

馬出門桝形

馬出門桝形は、馬出門と内冠木門の二つの門と周囲を土塀で囲まれた方形の空間をいいます。
桝形は、江戸時代初期(1645年頃)の様子を描いた正保図には馬出門土橋を渡って直ぐに馬出門が設けられていましたが、寛文12年(1672)の改修で門は、土橋を渡った奥に移動し、土橋との問に広場が設けられました。

銅門

銅門

銅門

銅門は、小田原城二の丸の表門にあたる桝形形式の城門で、渡櫓の門扉や鏡柱に耐火を兼ねた銅の装飾がなされていたことから、この名で呼ばれています。
馬屋曲輪から住吉橋を渡って、桝形正面の埋門形式の「内仕切門」を潜って桝形内部に入リます。桝形を西に折れると「銅門渡櫓門」となります。
渡櫓門は、幅約6m、長さ約23m、高さ約12mの規模で、渡櫓には「石落とし」と呼ばれる敵を撃退するための仕掛けが設けられていました。
銅門は、明治5年(1872)に解体されましたが、発掘調査により石垣の位置が明らかになり、城絵図や古写真などから復元設計が検討されて、渡櫓門や土塀が、日本古来の伝統的な工法で復元されました。

常盤木門

常盤木門

常盤木門

本丸には、常盤木門と鉄門というふたつの門があり。本丸にあった徳川将軍家の御殿を守っていました。そのうち、この常盤木門が小田原城の本丸正門です。
門の名前である「常盤木」とは常緑樹のことを指し、戦国時代から本丸に存在した七本の松(通称七本松、現在は1本「巨松」のみが残る)に由来しています。命名には、常に緑色の葉をたたえる松のように、小田原城と小田原が永遠不滅に繁栄しますようにとの願いが込められていると言われています。

天守閣

天守閣

天守閣

小田原城天守は、外観三重内部四階の天守櫓に、入口にあたる付櫓、さらに両者をつなぐ続櫓で構成されています。
江戸時代の城絵図によると、初代天守は、慶長年間(1596~1615)に描かれた望楼型天守(加藤図)。二代目天守は、寛永10年(1633)の寛永地震後に復興された層塔型天守(正保図)、三代目天守は、元禄16年(1703)の元禄地震後の宝永3年(1876)に復興された層塔型天守(文久図)と考えられます。この三代目宝永天守は、その後、江戸時代を通じて存続しましたが、明治3年(1870)に解体されました。

石垣山一夜城、太閤一夜城

石垣山一夜城、太閤一夜城

石垣山一夜城、太閤一夜城

小田原城が堅固であったため、秀吉は小田原開城後、この城の構えに倣って、大阪城の外郭を作りました。
この城の歴史上、最も有名なのが戦国末期の天正18年、全国制覇を狙う秀吉の小田原攻めです。北条勢は25万の大軍をもって包囲する秀吉勢に打って出るか籠城か議論が絶えませんでした。
これが今日まで語り継がれる小田原評定です。秀吉は城を見下ろす石垣山に2ヶ月あまりで小田原城攻略のための城を築きます。
のべ4万人を動員し、約80日で作らせたという城は石垣山一夜城、または太閤一夜城とも呼ばれ、その城は完成と同時に周りの木を切ったので、北条側からは一夜にして城と見えたのです。
これが戦意を失った北条勢の開城の大きな要因だと伝えられています。

小田原評定

小田原評定

小田原評定

小田原北条氏が発給した裁許状(裁判の判決文)には評定衆の署名があります。
裁判の審理などの重要な案件は、当主の独断ではなく、評定衆に任命した複数の有力家臣との合議で決定されていました。
豊臣秀吉との和・戦を決する評定が長引いたとして、「何時になっても結論の出ない会議や相談」の例えとされる「小田原評定」ですが、本来は合議により意思を決定する民主的な機構が整えられていたことを示しています。

江戸時代 以降

江戸時代 以降

江戸時代 以降

徳川時代となると、江戸への重要な関門として、大久保忠隣が譜代大名に据えられ、八幡山にあった。本丸も今日天守が建つ場所に移されます。大坂冬の陣に当たり、城は家康により大きく破却され、総構えを無くした上で、小田原城は幕府直轄の城となります。
江戸のお膝元、関8州をおさえた小田原城も明治を迎え、廃城となりました。
春は桜の名所としてここを訪れる人々に愛され続けています。


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