多賀城は、なぜ建てられた?
■ 多賀城は、なぜ建てられた?
多賀城は、なぜ建てられた?
なんと、創建は、神亀元年(724年)ということで、奈良時代の直後(平城京が710年)に既に東北に存在したということです。
大宝律令の制定(701年)
和同開珎鋳造(708年)
墾田永年私財法制定(743年)
天皇中心の中央集権を進めている最中に多賀城が作られたわけですね。
創建したのは、蝦夷制圧を進めた大野東人。
全国支配を推進する朝廷に貢献した武将です。
ちなみに朝廷支配に反目していた東北地方の人々を蝦夷と呼びます。
朝廷支配を拡大していく中で、蝦夷との衝突が発生していました。
720年に大規模な蝦夷の反乱が発生し、大野東人はこの反乱の制圧に派遣されたのです。
多賀城 周辺の遺跡
■ 多賀城 周辺の遺跡
多賀城 周辺の遺跡
多賀城周辺では、「北の都」としての古代日本の名残を示す遺跡が発見されています。
例えば、多賀城廃寺跡で、東側に塔が立ち、西側には東を向いた金堂があり、北に講堂が配置されています。
中門から伸びる築地塀が塔と金堂を囲んで講堂につながる伽藍配置は、大宰府の観世音寺と共通している点があります。
多賀城と同時期に建立されたとされる多賀城の付属寺院跡と推定されています。
多賀城跡から南東に200メートル離れた館前遺跡では、多賀城の政庁正殿に匹敵する大きさの主屋を中心に、6棟の建物が見つかっています。
これらの建物は9世紀頃にさかのぼるとされ、多賀城に赴任した国司の邸宅や、多賀城に関連する重要施設であった可能性が考えられています。
かつて「北の都」として栄えた多賀城ですが、平安時代中期を過ぎると、正史にその名が見られなくなり、後に「多賀国府」という名称が登場します。
例えば、鎌倉時代の歴史書『吾妻鏡』には、文治5年(1189年)に奥州藤原氏を滅ぼした源頼朝が多賀国府で戦後処理を指示したことが記録されています。
その後、南北朝時代には北畠顕家ら南朝方の拠点として名を留めるものの、次第に荒廃し、歴史の中に消えていったのでした。
復元する 多賀城 南門について
■ 復元する 多賀城 南門について
復元する 多賀城 南門について
多賀城市では、多賀城創建1300年を記念し、令和6年(2024年)に公開予定の国の特別史跡「多賀城跡」で正門にあたる「南門」の建屋の復元作業が進められていました。
2023年に復元が終わり、報道陣に公開されました。
私が訪ねたのは、2022年11月なので写真は古いのですが、復元された南門は、高さ約15メートルの木造。屋根には約1万6千枚の瓦を使い、門や柱などは赤土などで朱色を施しています。
今後は、門に取り付ける築地(ついじ)塀の工事を進め、多賀城創建1300年の2024年度の一般公開を目指しているそうです。
この南門は、8世紀中頃に建造され、多賀城の外郭で重要な入り口とされていました。
発掘調査により判明した平面規模や構造から二重門構造で格式が高い門だったと推定されています。
多賀城 付近の 壺碑・つぼのいしぶみ
■ 多賀城 付近の 壺碑・つぼのいしぶみ
多賀城 付近の 壺碑・つぼのいしぶみ
多賀城遺跡の南門付近には、覆堂によって守られた多賀城碑が立っています。この古碑は奈良時代(8世紀頃)に建立されました。
歌枕としては、壺碑(つぼのいしぶみ)として知られ、高さ196センチ、幅92センチの碑面には、平城京や当時の国境との距離、多賀城の創建や修復に関する情報が141文字で記されています。
さらに、栃木県の那須国造碑や群馬県の多胡碑(たごひ)と共に、日本三古碑のひとつとして書道史上の重要な碑とされています。
また、江戸時代には松尾芭蕉がこの地を訪れ、感動を覚えた様子が『奥の細道』に綴られています。
創建1300年『多賀城跡』で奈良時代にタイムスリップ
■ 創建1300年『多賀城跡』で奈良時代にタイムスリップ
創建1300年『多賀城跡』で奈良時代にタイムスリップ
平城京跡のある奈良県や福岡県の太宰府跡は、広く知られた日本を代表する歴史的遺跡です。
教科書にも掲載され、観光名所としても有名なこれらの遺跡は、日本三大史跡として数えられています。
えっ? 日本三大史跡?
ということは、もう一つの遺跡は?
と疑問に思われていたことでしょう。
そうなんです。もうひとつはは、今回紹介した宮城県に位置する多賀城跡なのです。
奈良時代に大和政権が東北地方を支配するための拠点として建設された多賀城。
平城京や太宰府に比べ、知名度は、だいぶ劣りますが、建物の基盤などが復元されているため、ぜひ、創建1300年の2024年には訪れたい場所です。
今は、観光客も少ないせいいか、歴史ある雰囲気を十分に感じることができました。