新発田城
■ 新発田城
新発田城
辰巳櫓
■ 辰巳櫓
辰巳櫓
かつて、赤穂義士堀部安兵衛の父が管理責任者で、櫓の焼失の責任をとって浪人となりました。
その後、安兵衛は、家名再興のため江戸に出て、高田馬場の敵討ちによって名を遂げました。
2004年、木造で復元されました。
石垣は切石を使った切込接布積み(きりこみはぎのづみ)となっています。
また、角の部分は算木積みとなっています。
縄張
■ 縄張
縄張
曲輪(本丸や二の丸)をどう配置するのか、堀や土塁、石垣はどこに作るのか、出入口の形はどうするのかなど、お城の基本設計を「縄張」といいます。
新発田城は、本丸の周囲を二の丸が囲み南に三の丸が突き出した「輪郭式+連郭式」併用型の縄張となっています。
現在では、そのほとんどが陸上自衛隊の駐屯地となっていて、観光客が入れるのは本丸と二の丸の半分ほどです。
連郭式(れんかくしき)
■ 連郭式(れんかくしき)
連郭式(れんかくしき)
本丸とその他の曲輪を一直線にならべた形が「連郭式(れんかくしき)」といいます。
本丸の露出している面が多く、守りが手薄になりがちなので防御するために帯曲輪・腰曲輪や堀切が作られることが多いです。
山の尾根に築く山城や平山城に多く見られるパターンです。
輪郭式(りんかくしき)
■ 輪郭式(りんかくしき)
輪郭式(りんかくしき)
本丸を中心にして、その周囲すべてをほかの曲輪で囲った形が「輪郭式(りんかくしき)」です。
本丸から四方へ曲輪を作っていくので、お城の規模が大きくなる傾向があります。
四方に対して均等に防御できる反面、二の丸が狭くなりがちです。
お城の規模が大きくなるため広い土地が必要で、輪郭式は平城に多く見られます。
柴田市民文化会館に三の丸跡碑が建っています。
そして、その北側には堀を挟んで二の丸がありました。
二の丸南側の復元計画があるようですね。
城の表門前に、すっと立っているのが堀部安兵衛の像。
赤穂義士の討ち入りで中心的な役割を果たした安兵衛。
像の顔は、しっかりと江戸を見つめています。
表門
■ 表門
表門
石落としも復元されています。
現存する本丸表門は享保17年(1732年)に再建された2階建ての門です。
国の重要文化財になっています。
外は黒瓦を使ったなまこ壁で、2階には石落しを備えるなど実戦的な構えも備えています。
水堀に囲まれた本丸は船の形をしていることから舟形城との呼ばれていました。
3匹の鯱を配するという独特の櫓で、全国にも例がない大変珍しいものです。
平成16年には、この三階櫓、辰巳櫓が復元されました。
鎌倉時代初期に幕府設立に戦功のあった佐々木盛綱の傍系である新発田氏による築城と考えられています。
代々新発田氏の居城となっていましたが、天正9年(1581年)、新発田重家が上杉景勝に対して反乱(新発田重家の乱)を起こし、天正15年(1587年)、景勝方の攻勢により新発田城は落城して、大名としての新発田氏は滅亡しました。
その後上杉氏の会津転封に伴い、別名「あやめ城」とも呼ばれた新発田城は、初代新発田藩主溝口秀勝(みぞぐちひでかつ)侯が慶長3年(1598年)に築城し、3代宣直(のぶなお)侯のときに完成しました。
新発田城は、一般に多くある山城ではなく政治・経済の中心として交通の便利さを考え、平地につくった平城でした。
石垣がすき間なくかみ合うようにきちんと積まれる「切込はぎ」と呼ばれる美観を重視した技法でつくられ、白と黒が美しい海鼠(なまこ)壁で仕上げられています。
新発田城はかつて本丸、二の丸、三の丸からなり、堀や石垣に囲まれ、新発田川の水を巡らせた平城で、11棟の櫓と5棟の門が並び壮観な景観を呈していました。
中でも、天守閣の代わりを果たしていたのが三階櫓です。
城址碑をこの位置で取ると櫓が全く見えませんが、引きで撮影すると櫓を入れることができます。
三階櫓
■ 三階櫓
三階櫓
三階櫓は事実上の天守です。
屋根は丁字型になっていて、3匹の鯱が乗っています。
なぜこういう形になったのかはわかっていません。
二の丸
■ 二の丸
二の丸
旧二の丸隅櫓を訪ねます。
もともと本丸鉄砲櫓があった所に二の丸隅櫓を移築したので、そういう名前になっています。