福山城から松前城へ
■ 福山城から松前城へ
福山城から松前城へ
松前城は、天守と本丸表門が隣接する地元では福山城と呼ばれている城です。
現在の天守は昭和35年に再建されました。
最初この城は福山岳と呼ばれ、道南一帯に勢力を誇っていた。蠣崎(かきざき)氏の5代目慶広により築城された城です。
蠣崎氏は戦国末期には松前氏と称し、豊臣政権に属し、その後、徳川家康より蝦夷島、すなわち北海道の支配を認められました。
幕末の1849年(嘉永2年)、この松前藩に突如、城の拡張命令が下されました。
理由は、19世紀が近づき、ロシアをはじめとする外国艦船が津軽海峡に出没するようになり、北方警備の必要に迫られたからです。
蠣崎氏(かきざきし)/松前氏(まつまえし)
■ 蠣崎氏(かきざきし)/松前氏(まつまえし)
蠣崎氏(かきざきし)/松前氏(まつまえし)
松前城の主{蠣崎氏(かきざきし)/松前氏(まつまえし)は、武家・華族だった日本の氏族です。
祖とされる若狭国出身の武田信広は、1454年に蝦夷地にわたって蠣崎氏の客分となりました。
蠣崎氏は元南部氏の家臣で、下北半島の蠣崎(青森県むつ市川内町蛎崎)を領有していました。しかし、南部氏と対立して敗れて蝦夷地に逃れました。アイヌというわけではありません。
当時、渡島半島には和人領主12人が館を構えて(道南十二館)、アイヌのコシャマインはそのうち10館を落としており、蠣崎氏が鎮圧しました。
この、コシャマインの乱でアイヌ人制圧を主導したことで、蝦夷地における地位を固めて蠣崎氏を継いだといわれています。
その5代目の慶広の代に豊臣氏、徳川氏に臣従し、松前と改姓して松前藩を形成しました。
幕命を受けた当主松前崇広は、ただちに兵学者市川一学を招き、築城に取りかかります。それが和式城郭最後の城、松前城でした。
総塗籠の壁面内には大砲攻撃に耐えられるよう鉄板が張られています。
蝦夷島に唯一城を持った松前氏は、代々、城下町の整備に努めます。
そして、この松前を北海道の鎌倉と称されるまでの歴史の香り高き、風情ある町に作り上げたのでした。
光善寺
■ 光善寺
光善寺
松前の桜の古木・血脈桜(けちみゃくざくら)でも有名な光善寺は、当初は高山寺と名乗っていました。
1621(元和7)年、時の後水尾天皇から高徳山光善寺の号を賜わり改称しています。
松前の町を散策すると、多くの古きたたずまいに出会えます。
法源寺
■ 法源寺
法源寺
天正3年に創建された法源寺
後水尾天皇から、山号と方位を下された寺です。
延徳2年(1490)、奥尻から大館に移され、松前山法源寺と呼ばれるようになりました。
古寺で有形文化財の山門は室町時代末期のものといわれ、道内最古の建造物です。
龍雲院
■ 龍雲院
龍雲院
寛永2年創建といわれる龍雲院は、旧幕府軍との戦闘では唯一戦火を免れた寺です。
松前はこの北海道の地で、日本の古き歴史を堪能させてくれるところでもあります。
松前城
■ 松前城
松前城
松前城は6年の歳月をかけ、外圧に備えて築城された城でした。
外国艦船の砲撃を一度も受けることなく、明治維新を迎えています。
しかし、皮肉にも新政府軍に加担したため、旧幕府軍脱走の榎本武揚らの艦隊に砲撃を受け、さらに土方歳三を隊長とする旧幕府軍の猛攻撃を受けてわずか1日で落城してしまうという運命をたどったのです。
函館は安政元年神奈川条約によって開校されました。幕府は蝦夷地支配をもくろむロシアなどの外国に対し、防衛強化のため函館奉行所を設置。海岸線の各所に大砲を据えた台場を築きますが、函館奉行所自体も城郭化が決まり、安政4年から五稜郭の築城が始まります。
※外人墓地、旧ロシア領事館