秀吉の天下統一最後の相手「九戸政実」の城だった九戸城の物語

秀吉の天下統一最後の相手「九戸政実」の城だった九戸城の物語

「続日本100名城」に選定された史跡九戸城跡(九戸城)は、九戸氏の居城の時に壮絶な戦いのドラマがありました。
九戸氏の居城だった九戸城は、三方を川に囲まれた天然の要害で、五千の兵で豊臣の六万の兵をてこずらせた、豊臣の天下統一にむけた最後の戦場だったのです。



「皆の命を救えるとあらば、勇んでこの首差し出そうではないか!」

政実は、そう言い放ち、白い死に装束を身にまとい討伐軍に投降した。
その後、討伐軍は、救うはずの城内に攻め込み全員撫で斬りにしたのだった。

「無念、謀られた・・・」

政実は、討伐軍の謀略によって、三日後に斬首された。
ここに豊臣秀吉の天下統一が果たされた。

糠部郡(ぬかのぶぐん)

糠部郡(ぬかのぶぐん)

糠部郡(ぬかのぶぐん)

九戸城があった地域は、糠部郡(ぬかのぶぐん)といい、古代から馬産地として名高かった場所です。
そのため、馬産のためエサである馬糠の納入義務を負う郡に、馬を年貢として納めるための個別経営体として「馬戸」を設置し、その「馬戸」の集落「馬戸村」が、一戸から九戸までの地名として定着し、各地方に管理された牧場経営が行われていました。
※八戸は有名ですね。

南部晴政と南部信直

南部晴政と南部信直

南部晴政と南部信直

時は戦国、16世紀半ば、この地方を治めていた南部晴政が勢力を伸ばし、北奥羽の戦国大名へと成長していった。
下克上の戦国時代後半、豊臣秀吉が国内統一を目指す天下人への階段を登りつつありました。
大坂城築城はその第1歩であり、天下統一の拠点として、また権力の象徴でもあったのです。

しかし、奥州は伊達政宗の動向をはじめとし、まだまだ不穏な空気が漂っていた。
北奥羽南部もまたその例にもれず、領主南部信直は津軽の大村氏や出羽の秋田氏、また領内諸豪族への対応に奮闘していた。
特に南部一族の九戸政実には、反乱の噂が流れていました。

南部信直と九戸政実が南部を2派に分けた争いが表面化したのは天正8年のことでした。
南部家当主24代晴政の死去に伴い、跡目をめぐり家中が揺れ、さらに晴政の嫡子に25代晴継が13歳で謎の死を遂げ、混迷の中、晴政の養子であった信直が、26代当主となることに。

九戸政実

九戸政実

九戸政実

それに対し、一族の実力者 九戸政実は、信直に仕えることを不服とし、南部では信直派と政実派と分裂したのです。
信直を凌ぐ力のあったと政実には、南部の支配権を握るには、自分こそという野望があった。

南部家中が揺れ動く中、津軽、大浦為信が津軽周辺を統一する際、浪岡城を襲撃し占領してしまう。
これは南部家中の抗争や北奥羽の戦乱の結果を見てとった為信の機敏な行動でもありました。
信直は、政実に討伐軍の先方を命じるが、為信と密約を結んだ政実は従わず、津軽一帯は、為信の勢力下となってしまう。

この時、天正13年、関白となった秀吉による戦国大名の戦いを禁止する法令「惣無事の儀」が出される1年前のことである。

天正18年、関白豊臣秀吉は小田原北条氏を攻め落とし、天下統一は時間の問題となった。
そして未だ中央政権に反発する東北地方の諸豪族に対する奥州仕置を開始する。
この時、南部信直は小田原参陣時、秀吉に謁見し、南部安堵の朱印状を受領している。
奥州は中央政権の下に統一されたハズだった。

しかし、実際のところ奥州では、秀吉の一方的な支配体制に反発し各地で一揆が続発していました。
九戸政実にとっても理不尽な支配に対する不満、そして秀吉配下の南部家からの独立を旗に、反乱の大義名分となったのであった。
天正19年、正月九戸政実 他、九戸藩の10人の武将は、南部家恒例の祝賀会の欠席をしている。
即ち、信直、南部家との対決姿勢を明らかにしたのです。

同年3月、ついに政実は、宗家に対し弓を引き、南部支配下の3つの城を攻撃してしまう。
ここに、南部を二分する戦いの火蓋が切っておとされたのです。
初戦は九戸方が優勢。信直は苦戦を強いられた。
そこで信直は、世子の南部利直を上洛させ、秀吉への反乱として奥州再仕置軍を要請します。

豊臣秀吉による奥州再仕置

豊臣秀吉による奥州再仕置

豊臣秀吉による奥州再仕置

秀吉は豊臣秀次を総大将に、浅野長政、蒲生氏郷、石田三成らを派遣します。
総勢6万とも言われる大群、これは、天下人、豊臣秀吉の威光を示すため動員でもありました。
1反逆者、政実の討伐は名目で、天下統一の最後の総仕上げの戦でなければならなかったのです。

みちのくにはすでに晩秋の風が吹き始めていた。
全軍、鉄砲の一斉射撃に鬨の声をあげ、一気に押しつぶそうとの総攻撃を開始。
まるであたりの山が振動して砕け、大地も避けるかと思うほどのすさまじさ。
政実は、城兵5000とともに、無謀とも言える最後の抗戦を決意し徹底抗戦。
政実の地の利を生かした巧みな戦術で、難攻不落の九戸城は、その名の通り簡単に落ちることはありませんでした。
必死の抵抗を前に、浅野長政は、長期戦を避けるための策謀を仕掛けます。
政実が信頼する九戸市の菩提寺、長興寺の和尚を使者とし、政実が投降すれば、他の者の命を助けると説得したのです

政実は、一身を投げうって奥州を守ろうとした決断でした。
政実は、7人の武将を連れ討伐軍に投降したのです。
そのいでたちは、死に装束をまとっていたと言われています。

政実投降後、討伐軍は、約束を違え城内になだれ込み、城内の者を撫で斬りにしたのです。
討伐軍の謀略によって、政実は、他の武将らとともに三日後に斬首され、ここに豊臣秀吉の天下統一が果たされました。

言い伝えでは、三ノ迫で斬首された政実の首を家臣が密かに地元まで持ち帰り九戸神社近くの山中に埋めたと言われています。
誰もが秀吉に流れていく戦乱の世で一人敢然と立ち向かった政実の心は、今もなお脈々と私たちの中で生き続けることでしょう。

史跡九戸城跡とは?

史跡九戸城跡とは?

史跡九戸城跡とは?

九戸城は、九戸村から二戸市周辺を治めていた九戸氏の城として築かれました。
天正19年(1591)に蒲生氏郷ら一揆鎮圧を目的に組織された再仕置軍によって、石垣をもつ城として作り変えられ、盛岡城へ移るまでの間、南部氏の城として利用され、 城の範囲は、堀によって区画された本丸・ニノ丸・石沢館・若狭館・松ノ丸・三ノ丸に分けられます。昭和10年6月7日に史跡九戸城跡として、国の史跡に指定されました。

戦国時代には、九戸城や金田一城、浄法寺城の領主がそれぞれの地域を治めていました。
豊臣秀吉による奥羽仕置の結果、南部氏がおさめることになりました。

九戸一揆

九戸一揆

九戸一揆


奥羽仕置の内容に反発して東北各地で起こったー揆のひとつが、九戸一揆です。
九戸政実、櫛引清長ら一揆軍と南部氏との間で起こった戦いです。

1950年、一揆を鎮圧するため、豊臣秀次を総大将とする討伐軍が組織され、9月旧に九戸城へ到着し、9月4日に九戸政実が降伏し落城しました。

福岡城

福岡城

福岡城

九戸一揆討伐後、蒲生氏郷らによって、本丸が石垣をもつ城へと改修されました。

東北地方で石垣が城に築かれるようになるのは、秀吉の天下統一後で、それまでは、石垣はありませんでした。
九戸城の石垣は、東北地方の石垣のなかでも古く、大変貴重なものだそうです。
改修後は、南部信直に引き渡され、九戸城は「福岡城」と名付けられました。

もし、行く機会があれば、「九戸神社」「政実公の首塚」「小祝の祠:地元では政火公のお姫さまを祀った祠と伝えられています。」「長興寺」などを巡るのがおすすめです。


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