「真田は日本一の兵(つわもの)」と武名を轟かせた”真田丸”その真田一族ゆかりの地、上田城周辺を紹介したいのだ!!!

「真田は日本一の兵(つわもの)」と武名を轟かせた”真田丸”その真田一族ゆかりの地、上田城周辺を紹介したいのだ!!!

戦国最強の武将「真田信繁(幸村)」の愛と波乱に満ちた激動の生き様は、今もなお人気を博し語り継がれています。 ちょうどNHK大河ドラマ「真田丸」が始まるとのことで、真田一族のゆかりの地、上田を訪ねてきました。


六文銭

真田一族のゆかりの地、上田周辺を訪ねてきました。
真田の家紋として有名な「六文銭」は、もともとは仏教の世界で言う六道銭のことです。六道銭は三途の川の渡し賃、つまり通行料とされており、死者を葬る時に遺体と一緒に埋めるものです。

後付けでしょうが・・・
三途の川の渡し賃は片道六文、いつ死んでも悔いはない
三途の川の渡し賃は片道三文である。だから死んでも戻ってくる
などの意味があります。
もうこの時点でカッコいいですね。

真田は日本一の兵(つわもの)

大坂冬の陣において、豊臣方の真田信繁(幸村)が大坂城の平野口に構築した真田丸(曲輪城)で、徳川方の兵を散々に打ち破りました。
この出城「真田丸」を目の当たりにした島津忠恒(家久)は、故郷への手紙に「真田は日本一の兵(つわもの)」と記したそうです。

また、大阪夏の陣で、真田信繁(幸村)は、越前松平軍1万3千の後方に本陣を張った徳川家康だけをターゲットに定め、一丸となって突撃を敢行し、本陣まで辿り着きました。
この時、家康は何度も自害を考えたといいます。結局、幸村は討ち死にしましたが、幸村の首実検の際に、家康が「幸村の武勇にあやかれよ」と言うと、居並ぶ武将達がこぞって遺髪を取り合ったといいます。

上田城の攻防

慶長五年(1600年)9月2日、関ヶ原の合戦へ向けての前哨戦の一つ「上田城の攻防」があります。

石田三成と結託していた上杉景勝に謀反の疑いをかけ、軍勢を率いて陸奥・会津城へ向かった徳川家康が留守中の伏見城に石田三成が進軍しました。
このことで、徳川家康は、北上途中の小山の地で軍議(小山評定)を開き、会津へ向かうのを中止し「東軍につくか?西軍につくか?」を諸将に問いました。そして「三成憎し」の福島正則を筆頭に「東軍!東軍!」「我も我も」とほとんどの武将が、東軍の徳川方につくことになりました。

しかし、この時、戦国の名将「真田昌幸(真田幸村の父)」は、徳川軍から離脱します。
この、犬伏の陣にて真田親子が選んだそれぞれの道を”犬伏の別れ”と言います。
これが、天下分け目の戦い「関ヶ原の戦い」(9月15日)への契機となり上田城の攻防へと続くのです。

さて、家康はしばらく各地の武将や大名に協力要請の書状を書きながら構想を練った後に出陣します。
本隊の軍勢を2つに分け、1つは自分が率いて「東海道」から西に、もう一方は、「徳川秀忠」が率いて「中仙道」 という山間部を通り西に進軍していきました。
1点、想定外であったのが、この「上田城の攻防」です。
秀忠は、「真田昌幸・真田幸村」の待ち受ける上田城を落とせず「関ヶ原の合戦」に遅参するという失態を犯してしまいました。

逆に、真田昌幸、幸村父子が、みごとに城を守りきったということです。

なぜ、「上田城の攻防」が、有名なのか!? 

上田城には3000人程度の兵、秀忠の軍勢は 3万8千と圧倒的な差だったにもかかわらず、名将 「真田昌幸」 の防戦策の前に大苦戦しまったわけです!
徳川軍の兵力の半分は徳川秀忠が率いていたため、これが戦場に到着しなかったのは徳川家康 としては大誤算でした。

もう少し詳細に!!!

9月2日、秀忠は信濃小諸城に入り、上田城に対して『降伏勧告』を行います。
もちろん昌幸は拒否したため、すぐさま小競り合いが始まりました。
この時、先鋒となったのは、兄の信幸の率いる軍で、弟の幸村が守る伊勢崎砦を攻めます。
幸村は砦を放棄して上田城へ後退しますが、それは引き付けるための罠でした。
このような、わずか3千弱の昌幸軍のゲリラ戦法に悩まされ続けた3万5千という大軍の秀忠軍は、時間の経過とともに意見が真っ二つに分かれて軍儀が大揉になる事になりました。

「上田城の攻略は見送り、一刻も早く、家康の本隊と合流すべき」

「上田城攻略は必須であるからして、攻撃を続ける」

結局、秀忠は上田城周辺に、森忠政(蘭丸の弟)らを残し、本隊への合流を急ぐ事になりましたが、秀忠が関ヶ原に到着したのは、9月19日で、時、既に遅しですね。

関が原の合戦が、東軍の大勝となり、昌幸と幸村は、紀伊・九度山への配流の身となりました。

この時も、昌幸・幸村父子のおかげで、大事な合戦に間に合わないという不祥事を起こしてしまった秀忠は、二人を処刑しようとしますが、信幸の「それなら、先に私を切腹させてからにして下さい」いう迫力に負けての流罪という処置でした。

もちろん、父が没収された領地を、そっくりそのまま与えられて上田城主となった信幸は、その後も、九度山に入った父と弟のを、ずっと想い続けたハズです。

犬伏の別れ

ところで、なぜ、信濃上田城主・真田昌幸(まさゆき)は、徳川家康に与する事をやめたのでしょう?

実は前田玄以・増田長盛・長束正家の三奉行の名によって、家康が亡き秀吉の遺言にそむいたとされる行動が13か条の項目に箇条書きに書かれた『内府ちかひの条々』なる書状が去る7月17日に諸大名に流れていて、これを読んでいたからだと言われています。

加えて、7月21日、家康について会津の上杉家討伐に向かった真田昌幸、信幸(信之)、信繁(幸村)父子は下野国犬伏(現在の佐野市)で陣を張っていた父子のもとに石田三成から密書が届き、豊臣方に味方するよう書かれていました。

この書状を受けて父子3人で話し合い、どちらが勝っても真田の家が残るよう、信幸が徳川方、昌幸と信繁が豊臣方に分かれて戦うことを決断したとされています。
これが「犬伏の別れ」です。

松代城

信之は家康から父、昌幸の領国を宛がわれ、上田領3万8千石・沼田領2万7千石・加増3万石)の大名となっていました。
しかし、1622年10月、将軍秀忠は突然、信之に上田から松代への移封を言い渡しました。
この転封には秀忠の器量の低さというか底意地が感じられ、真田墳墓の地、小県から去るには忍びなかったでしょうが逆らうことは不可能であり、この時58歳の信之は従容としてこれを受け入れ松代へ移りました。

松代でも信之は藩政をしっかりと行い、着々と成果を上げたようです。
菩提寺の長国寺などを上田城下から移し、町割再編、上田や沼田から従ってきた商工業者らも松代の住民と一緒に町を盛り上げました。
米以外に小麦や大豆、ソバなどの雑穀類も多くの村で作らせ、いろいろな名産として今も存在するようです。

信之が生涯を懸けて守ったものは、自身の武名ではなく、「真田家の存続」と「そこに暮らす人々の安住」だったのか!?と感じられる落ち着いた町並みが続いていました。

上田バラ焼き丼

さてさて、いつもの美味しいもの探し・・・!

上田の新名物「上田バラ焼き丼」ネットで見つけたのですが、どなたか!?どこで食べれるのか情報を教えてください♪

(*^。^*)

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